ブログは日本語教師の歩く鏡である

「授業の質は上げる」「仕事の量は減らす」「両方」やらなくっちゃあならないってのが「教師」のつらいところだな 覚悟はいいか?オレはできてる

知識は学習者が必要とした瞬間に与えなければいけないということ

  こんばんは。日本語教師ブロガーのNicky(@jpt407)です。

 

 「啐啄同時」という言葉があります。もともとは禅宗の言葉なのですが、「弟子が悟りを開こうとするとき、すかさず師が教え導くこと」のような意味です。

 「啐啄同時」という禅語があります。啐啄同時とは、鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき、殻の中から卵の殻をつついて音をたてます。これを「啐」と言います。そのとき、すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る、これを「啄」と言います。そしてこの「啐」と「啄」が同時であってはじめて、殻が破れて雛が産まれるわけです。これを「啐啄同時」と言います。これは鶏に限らず、師匠と弟子。親と子の関係にも学ぶべき大切な言葉です。

法話「啐啄同時」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

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 私は最近、この「啐啄同時」が教育、特に語学教育において大事なのではないか、と思い始めました。教育で言い換えるなら、「学習者が学びたいと思ったとき、教師がすかさず知識を与える」ということです。逆に言えば、「学習者が学ぶ気になっていないのに、いくら教師が知識を与えても無駄」ということです。

 

 私は語学教育では、この「啐啄同時」にも二つのレベルがあると考えています。一つ目は、直接法そのものの「啐啄同時」、もう一つは動機付けとしての「啐啄同時」です。

 

直接法の「啐啄同時」

 最近、学校教育の英語でも、「英語は英語で教えなさい」ということが言われるようになり、「(特に何も知らない初級で)英語を英語で教えるなんて不可能だ」という声があちこちから聞こえるようになりました。

 しかし、日本語教育では昔から「日本語で日本語を教える」(直接法と言います)ことを行ってきていて、実際成功しています。もちろん、限界もありますが。

 

jpt407.hateblo.jp

 

 その直接法の極意として、私は養成講座の先生の言葉をずっと心に留めています。

 

 「(導入を)やって見せたら、学生の頭の中には、これを母語で何と言うのか浮かびます。母語では何でも言えるわけですから。

でも、『日本語で何と言うのかわからないな』、と思っているところに、日本語の文を出せば、頭の中のイメージと日本語の文型が結びついて、すっと入ります。」

 

 私は直接法の導入を考えるのにずっと苦労していましたが、この言葉で迷いが晴れました。そうか、その文型が母語で頭に浮かぶような導入を作ればいいのかと。もちろん、言うは易く行うは難し、で毎回うまく導入できるわけではないのですが。

 

 まさにこれこそ、「啐啄同時」だと思います。学生の頭の中に、「これを知りたい」という欲求があって、すかさず教師がその答えを提示するわけですから。

 逆に言うと、うまくいかない導入というのは、学生の頭に「母語で何と言うのか」が浮かんでこない導入、はっきり言えば「何を表現したいのかわからない導入」なのでしょう。私も初級の導入については、いろいろパターンを整理しているので、また改めて別の記事で書きたいと思います。

 

 私も、無条件に直接法が優れていると考えているわけではありません。

 

jpt407.hateblo.jp

  しかし、やはりできる限り間接法で教えたほうがいいと思います。それは、この先生の言葉のように、「頭の中のイメージと、日本語を直接結び付けることができる」からです。

 

動機付けとしての「啐啄同時」

 言葉は悪いですが、私はなぜ、学生が教えたことをすぐ忘れてしまうのか、ずっと疑問に思っていました。もちろん、教え方が悪い、という理由はあるでしょうが、それ以外の理由です。

 

 その疑問を考えているうちに、私はある仮説に至りました。

 

「学生は、教えられた語彙や文型に、それほど必要性を感じていないのではないか」

 

ということです。

 

 これは以前、文型シラバスとタスクシラバスについての論争があり、その中で国際交流基金の村上吉文先生(@midogonpapa)が、「行動中心アプローチ」というものを提示されていたことにヒントを得たものです。

 

togetter.com

jpt407.hateblo.jp

 

 現場の実践では、文型シラバスに基づいて先に用意された「教えるべき事項」をコミュニカティブに再構成するという作業が多く行われているようです。(中略)

 しかし、私たちは、日常生活で文型、語彙、文字などの言語知識が準備されてから、活動(課題)を行っているのではありません。まず「やりたい/やるべき」活動(課題)が先にあり、そのために必要なものを選び取りながら言語活動を行っています

 行動中心アプローチでは、まず「何をするか」から出発し、「何のために言語を使うか」「言語を使って何ができるか」ということを考えています。ですから「教えるべき事柄」を教師が前もって用意するのではなく、学習者自身が活動(課題)に必要なものを選び取っていくという考え方が基本となります。

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日本語教師のためのCEFR

日本語教師のためのCEFR

 

  前の記事(コミュニケーション力を育てる活動型クラスを始めるにあたって、参考になる本)にも書きましたが、文型積み上げ式のシラバスでは、学生側に特に表現したい内容もないのに、教師から「とりあえずこれを覚えろ」と文型と語彙が提示されます。学生側は、何の必要性があってこれらの文型と語彙を学ぶのかわからず、結局定着しないのではないか、というのが私の仮説です。

 これに対して、行動中心アプローチでは、表現したい内容が先にあって、それから語彙や文型を学習します。つまり、語彙や文型を学習したいという動機付けができてから、学習するわけですから、これも一種の「啐啄同時」と呼べるでしょう。

 

 以前にも書いたとおり、現在の文法シラバスは、50年以上変更されておらず、しかも学習意欲の高い学生を想定しているそうです。 だから、学習の動機付けなどはあまり考慮されていないでしょう。いや、そもそも動機付けという概念自体がまだ誕生していなかったかもしれません。

 現在の文法シラバスは遅くとも1960年代(遡れば太平洋戦争末期)にはほぼ完成しており、それから50年以上実質的には変更されていません。現在のシラバスは基本的に「文法は初級で終わり」というスタイルになっていますが、これは、当時の日本語教育の対象者が日本語教育の動機付けが極めて強い学習者(野田尚史氏の言う「日本語エリート」)であったことと強い相関があります。現在でも、中国、台湾などで日本語教育を専攻する大学には同様の動機付けの強い学習者が一定数存在しており、そうした学習者を対象とするのであれば現行の文法シラバスでも大きな問題は生じないとも考えられます

実は現在の文法シラバスは50年前からほぼ変わっていないという話 - ブログは日本語教師の歩く鏡である

 もちろん、50年前の学生を実際に知っている教師は誰もいないわけですが、『みんなの日本語』などに代表される、文型積み上げ式と言われる教科書を使って教えていると、これは真面目な学習者だけを想定されて作られた教科書だな、ということがすぐにわかるのではないでしょうか。 というのは、「以前教えた内容は、学生がすべて覚えている」ということが前提となって教科書が組まれているからです。以前教えた文型を使って新しい文型を教えるというシステムであるため、学習者が毎日きちんと復習をして、学んだ内容を忘れない、ということが前提になっています。

 もし、教えた内容を片端から忘れてしまう学生相手に、文型積み上げ式のテキストを使って教えようとするなら、学生にとっては、シラバス後半の内容は全く理解不能なものになり、ただ座ってぼーっと授業を聞いているだけ、という状況になります。

実は現在の文法シラバスは50年前からほぼ変わっていないという話 - ブログは日本語教師の歩く鏡である

 

 もし、文型積み上げ式のシラバスが、学習者の動機付けをあまり考慮しておらず、一方で行動中心アプローチが動機付けを重視しているなら、行動中心アプローチは文型積み上げ式より優れていると言えるでしょう。『みんなの日本語』はやめて、『できる日本語』や『まるごと』を使ったほうがいいはずです。

 

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できる日本語 初級

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  私も一時期そのように考えていました。しかし、考えているうちに、そうとも限らないことに気がつきました。

 

 もし、文型や語彙の必要性を感じることが、それらの定着に影響を及ぼす最大の要素であると仮定すれば、日本語が最も上手なのは留学生ではなく、定住者であるはずなのですが、必ずしもそうではないからです。

 

 たとえば、『できる日本語』では、ある場面を使って、そこで必要な語彙や文型を導入します。これは語彙や文型の必要性を感じさせるという点において、『みんなの日本語』より優れています。

 しかし、もっと優れたものがあります。それはテキストではなく、現実です。たとえば、「急に病気になって、アルバイト先に休みを申請しなければならない」、「家賃を滞納してしまい、大家に支払いを待ってもらうように頼まなければならない」など、「これができなければ死ぬ」というタスクが、現実にはゴロゴロ転がっています。

 これに比べれば、教室内でのタスクは、できなくても別に死ぬわけではないので、遊びみたいなものです。

 理屈からいえば、重要なタスクほど、そこで使われた語彙や文型を必死で覚えようという意欲は高くなるはずです。そして、そのようなタスクを日常的に数多くこなしている定住者は、留学生より語学能力が高いはずですが、必ずしもそうではありません。

 むしろ、長年住んでいるのに、いつまでたっても言語能力が向上しない定住者もたくさんいます。通じればいいや、で満足(あきらめ)してしまうのでしょう。また、一見日常会話はペラペラなのに、ちょっと難しい話になると途端についてこられなくなる定住者もいます。これについては、生活言語能力(BICS)と学習言語能力(CALP)の違いも関係しているかもしれませんが。

 

 とにかく、私の結論は、

 

学習者の動機付けも重要だが、それだけで全て説明できるわけではない

 

ということです。

 

 それに、行動中心アプローチ(タスク型)の欠点として、学習者が「伝わればよかろうなのだァッ」という考え方になってしまい、「一見流暢なんだけど文法めちゃくちゃ」みたいな人が育ってしまわないか、心配です。まあ、日本語学校にもすでにそういう人がいますが。

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 CEFRだとそれでも評価の対象となるようなのですが、当然今の日本の入試システムでは評価されません。つまり、国内の日本語学校では役に立ちません。

 

 ティムさんは、文法は苦手ですが、グループ活動の時には次々にアイデアを出したり、グループメンバーの意見をうまく調整したりしてくれているので、ティムさんがいるグループはいつも楽しそうに活動を行っていて、よい成果(発表や作文など)も生み出しています。つまり、ティムさんは「社会で行動する者(social agent)」として、「グループで一つの成果物をつくる」という目的(社会的な活動)の達成に大きく貢献しているのです。

『日本語教師のためのCEFR』

 

 

 結局、月並みですが、文型積み上げ式と行動中心アプローチを併用するのがいいのではないか、という結論に達しつつあります。

 まさに、一つ前の記事の内容です。

 

jpt407.hateblo.jp

 

  まあ、もちろん、私も勉強を始めたばかりなので、ここで述べたこと(特に行動中心アプローチの批判)は間違いだらけなのかもしれませんが。

 

 では、また!