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私たちはなぜ「言葉の乱れ」の追及をやめられないのか

 こんにちは。日本語教師ブロガーのNicky(@jpt407)です。

 

 今日はいわゆる「言葉の乱れ」について考察してみたいと思います。この記事の中では、「言葉の乱れ」や「正しい」、「誤った」という単語については、私の考えではなく、引用なので、「いわゆる」という意味を込めて「」をつけて表記することにします。

 

いわゆる「言葉の乱れ」

 今年も「国語に関する世論調査」が行われ、ニュースになりました。毎年、このニュースで話題になるのは、「『誤った』意味で使われている言葉」、いわゆる「言葉の乱れ」です。 

 

www.nikkei.com

 

 ところが、この「誤った」という考え方に対して、日本語学者で辞書編集者の飯間弘明先生が、異議を唱えていらっしゃいます。

 

辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術 (PHP新書)

辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術 (PHP新書)

 

 

 飯間先生は、以前にもこんなツイートをされています。

 これが正論です。そもそも言葉というものは、誰かが「これが正しい」と絶対的に決めたものではありません。現実のコミュニケーションの中で自然発生するものであり、文法や辞書というものは、現実のコミュニケーションを観察して、そこに共通するルールをまとめたものです。つまり、文法や辞書が先にあって、それから現実のコミュニケーションができたのではなく、逆に現実のコミュニケーションが先にあって、それから文法や辞書ができた、ということです。

 

 ところが、文法書や辞書を根拠として、「この言葉は間違っている」、「言葉の乱れだ」と言う人が後を絶ちません。これはどうしてなのか、考えてみたいと思います。

 

なぜ「言葉の乱れ」の追及をやめられないのか

 まず、いわゆる「言葉の乱れ」の指摘に合理的な根拠がないということは上に述べました。合理的な根拠がなければ、感情論でしかありません。では、その感情とは何でしょうか?

 

 私は、「言葉の乱れ」を追求する感情三つは、「恥をかきたくないという欲求」、「他人を笑いたいという欲求」、「新しいルールを強制される負担に対する不満」の三つに集約されると考えました。

 

恥をかきたくないという欲求

 これは、「『誤った』言葉を使って、恥をかきたくない」という欲求です。「恥をかきたくない」という人たち、そしてそういう人たちを相手にして商売している人たち(「正しい」日本語の使い方の本を書いている人など)が、「言葉の乱れ」を過剰に追及しているということが考えられます。

 では、なぜ「誤った」言葉を使うと、恥をかくのでしょうか?それは、言葉が単なるコミュニケーションのためのツールではなく、マナーや教養の一つだと考えられているからです。

 言葉がマナーや教養の一つとして考えられていることは、本屋に行けばわかります。だいたい、ビジネスマナーの隣に、言葉遣いの本が並んでいます。そして「知らないと恥ずかしい~~」など、羞恥心を煽るかのような本が多いです。また、「ビジネスマンの言葉遣い」、「大人の言葉遣い」など、個人の属性と結びつけた本が多いことが分かります。「ビジネスマン(大人)に期待される言葉遣い」という共通認識が強いことがうかがえます。

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他人を笑いたいという欲求

 これは、「恥をかきたくないという欲求」の裏返しです。「自分は恥をかきたくない」が、「他人が恥をかいたら笑ってやりたい」という気持ちは、誰にでもあります。この思いが強い人たち(そして、「言葉の乱れ」を飯の種にしている人たち)が、他人の「誤り」を指摘し、拡散し、言葉の使い手全員に「言葉の乱れ」を強く意識させているのではないかと思います。

 あえて引用しませんが、ニュースでも、Twitterでも、「あいつ、あんな言葉の使い方をしているよ。恥ずかしい。」という案件は頻繁にあります。

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新しいルールを強制される負担に対する不満

 簡単に言うと、年配の人が若者に対して「勝手に言葉を変えられると、こっちは理解するのに苦労するんだよ」と言う愚痴です。

 

 まず、言葉は大勢の人に共有されたルールです。約束事と言ってもいいかもしれません。時代につれて変化しますが、とにかくルールはルールです。たとえば、「犬」と聞いたら、「ワンと鳴く動物」を思い浮かべます。これが一部の人にとっては「ニャーとなく動物」の意味になったら、ルールではありません。

 ところが、このルールは変化します。たとえば、「ヤバい」という言葉は、もともと「危ない」という意味しかありませんでしたが、後になっていろいろな意味が付け加えられました。ここに不満が生まれます。「ヤバい=危ない」というルールしか知らない人が、初めて「この服ヤバい」と聞くと、一瞬思考が止まります。そして、「ヤバい=すごい」だという新しいルールができます。

 ただ、これは新しいルールを知らない人にとっては、単なる負担にすぎません。古いルールしか知らない人にとっては、「こっちは古いルールだけ使ってスムーズにコミュニケーションしているのに、今さらそちらが勝手に作った新しいルールを押し付けるな」ということでしょう。

 

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 実はこれ、日本語教師にもよくあることです。こういうことをあまり言ってはいけないのですが、学生と話したり、作文を添削したりしているとフラストレーションがたまります。「この単語(文)は意味が通らない。ひょっとしてこういう意味だろうか?」と頭の中で別の意味を推量しなければいけないことが絶えず起こるからです。もし日本語ネイティブとコミュニケーションしていれば、ほぼ必要がない負担です。

 

 飯間先生は、誤用についても興味深いツイートをされています。

 

では、日本語教師はどのように日本語を教えているのか

 最後に、やはり本業に戻って、日本語教育について書いてみたいと思います。

 

 まず、(言語学者や辞書編集者もそうらしいですが)「日本語教師と話すとき、間違った日本語を話すと、訂正される(怒られる)んじゃないか」と思われる方が多いそうですが、それは事実ではありません。いちおう、言語学の立場からは、「客観的に正しいと定義できる言葉はない」ということになっていて、大部分の日本語教師もそう考えているはずです。

 ただ、もちろん例外はいます。特に、一部に「美しい日本語と日本文化を世界に広めたい」という日本語教師が存在することは確かです。

 

 では、「日本語教師は『言葉の乱れ』も含めて、現実のコミュニケーションで使われている日本語(ら抜き言葉や、若者言葉)もそのまま教えているのか」と言われれば、それもまた事実ではありません。

 

 矛盾しているようですが、やはり教室では「正しい」(と言われている)日本語を教えています。それは「学生と話す日本人に不快感を与えないため」です。

 たとえ「正しい言葉というものはないんです」と言っても、それはただの理想論です。目の前の相手が、「この人の日本語は間違っている。失礼な(日本語が下手な)人だ。」と思えば、そこでその学生の評価は決まってしまいます。

 

 長々と述べてきましたが、結局は常識論に戻ってしまいました(笑)。

 

 では、また!