ブログは日本語教師の歩く鏡である

「授業の質は上げる」「仕事の量は減らす」「両方」やらなくっちゃあならないってのが「教師」のつらいところだな 覚悟はいいか?オレはできてる

学生に新しい知識を教えることを「入れる」と表現する日本語教師

 おはようございます。日本語教師ブロガーのNicky(@jpt407)です。

 

 おそらく、日本語教育にかかわったことがない方、特に中学校や高校といった、いわゆる「普通の」先生方には理解できないことだと思いますが、日本語教育の一部では、学生相手に「入れる」、「入る」という単語が日常的に使われています

 

 最近、『一歩進んだ日本語文法の教え方1』という本を読んだのですが、そこにはこのように書かれています。

 日本語教育の現場でよく使われた(いまでも使われている?)言い方に、文法項目を「入れる」、文法項目が「入る」というものがあります。たとえば、次のように使われます。

 

 ①このクラスはできが悪くて、いくら文法を入れても全然入らない

一歩進んだ日本語文法の教え方1

一歩進んだ日本語文法の教え方1

 

 

 どう感じられますか?もちろん、問題ないという方もいらっしゃると思いますが、私はかなり嫌です。というのも、「入れる」、「入る」というのは、普通「かばんに本を入れる」、せいぜい「コンピューターにWindows10を入れる」というように「ヒト」ではなく、「モノ」相手に使われる言葉だからです。

 

 

 先の本の続きです。

 この観点から見ると、①の表現の背景には、学生を「容器」とみて、そこに知識を流し込む(「入れる」)ことが教育だという教師の(潜在的な)認識/価値観があると考えることができます。

 

 考えすぎかもしれませんが、「入れる」、「入る」という言葉を聞くと、私は下のような絵を想像します。

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  まるで、学生は何も入っていないコップであるかのようです。あるいは何も入っていないコンピューター。空っぽで、何の知識もなく、ただ与えられる知識を従順に吸収するだけの物言わぬ「モノ」です。

 

 しかし、本当にそうでしょうか?学生はすでに、少なくとも自分の母語という言語を一つマスターした存在です。その母語を使って、自由に考えることができます。確かに日本語の知識こそゼロかもしれませんが、知性は決してゼロではありません

 

 このあいだ、「一部の日本語教師が学生を子ども扱いしている」ことが問題になりました。

jpt407.hateblo.jp

  しかし、この「モノ扱い」は、「子ども扱い」よりはるかにひどいことではないでしょうか?

 

 ちょっと想像してみてください。あなたが新しい言語を学びに、「○○語教室」へ行きました。そして、休み時間に、自分の教師が同僚に、「今日は○○(文法の名前)を入れた」と言っているのを聞いたら、カチンと来ませんか?あるいは、中学校や高校の英語教師が、「今日は学生に受身を入れた」なんて言葉づかいをしていたら、保護者から抗議が来てもおかしくないと思います。

 

 

 私がこの「入れる」、「入る」を初めて耳にしたのは、養成講座の時でした。まだ正式に教師の資格も取っていない教師の卵が、かっこいいプロの専門用語だと思って、講師の言葉づかいを真似したのか、実習の学生役の外国人に対して(直接ではありませんが)「入れる」、「入る」を使っていました。

 私はそれが非常に嫌でした。百歩譲って、ベテランの教師が「入る」、「入れる」を使うことはよしとしましょう。ベテランならある程度思い通りに教えることができるからです。しかし、まだ教え方を学び始めたばかりで、何も思い通りにいかない受講生が、しかも実は自分より頭のいい人を捕まえて、「入れる」だの、「入る」だの、失礼極まりない、と思っていました。(学生役の外国人はすでに日本語、つまり外国語をマスターした人たちですが、受講生はおそらく日本語しか話せないはずです)

 

 現場に出ても、「入れる」、「入る」は日常的に使われていました。もちろん、使っている方はベテランの教師ばかりで、おそらく素晴らしい授業をされていると思います。学生をモノ扱いしようという意識も感じられせん。しかし、そういう言葉遣いをするのには、どこかにそういう考えがあるのではないかと感じられ、私にとってはすごく嫌な言葉です。

 

 たくさんの先輩教師の方々が日常的に使われているので、それが正しいのかと思って今まで我慢していたのですが、冒頭のように日本語教育界の偉い方も問題として考えられているのを見たので、書いてみました。

 

 ちなみに、前の本は次のように続きます。

学習者が日本語学習に対して特に不適合でないとすれば、論理的に考えて、学習者は教材や教師の説明を誠実かつ論理的に処理してアウトプットを出していると考えられます。そうであるとすれば、そのアウトプットに問題があるのなら、その問題はインプットである教材や教師の説明の側にあると考えるのが最も普通の考え方ではないでしょうか。①のような考えを持っている教師は、この最も普通の考え方が理解できていないわけで、そうした教師に授業を改善することは期待できません。また、次に述べるように、授業のなかには研究のヒントが数多くあるのですが、①のような考え方を持っている教師はそのような「宝の山」の中にいても、その価値を理解できずに終わるのです。

 

 この本に書かれていることは、理想論で、学生を性善説でとらえすぎている、と感じる方もいるかもしれません。私もそう思います。たとえば、深夜バイトで疲れ切っていて、最初から日本語学校の時間を睡眠の時間に充てていて、しかもそもそも日本語学習の必要性もないし、やる気もないという留学生を相手に、「学生ができないのは教師のせいだ」という考え方で授業していたら、きっと身が持たないと思います(笑)。

 しかしまあ、できる範囲で、少しでも学習者本位の考え方になれればいいなと思います。私も含めて。

 

 では、また!